森友嵐士 墨象とは 1990年代。 「悲しみが痛いよ」「離したくはない」等、数多くのヒット曲を世に送り出した、ロックバンド「T-BOLAN」。 T-BOLANのボーカルであり、主に作詞作曲を担当していた森友嵐士の歌声が、TVや有線等から流れ、メジャーバンドとして不動の人気を博していたさなかの1995年。 その年のライブツアー中に異変が生じた。 ボーカル森友嵐士の喉の不調。 ライブツアー中の森友は、それでも歌い続けた。 ドクターストップがかかったが、湧き上がる感情を抑えることが出来ず、ステージに上がることを選んだ。 そして、T-BOLANは活動休止。 やがて解散に至った。 心因性発声障害。 診断された病は、後の森友をあらゆる意味で大きく変えることとなった。 原因不明のストレスで声が出ない。 話すことすら出来ない。 10年後も出ないかもしれない…。 まさに俺にとって、それは死を意味した。 歌うことを奪われ失意の中にいた森友は、ある一つの大きな 「キッカケ」に出会う事になる。 それは故郷広島の友人が、わざわざ上京して手渡してくれた誕生日プレゼント。 --- 復活、T−BOLAN --- ある書家が綴った"書"であった。 その言葉に気持ちに感動した。と同時に深い感銘を受ける。 それは、初めて見るその書体・色遣いに強く惹かれる自分がいる。 そして、こう思った。 --- これを書いた人物に会いたい --- 幾つかの季節が巡りその思いは届き、書家のもとを訪れる機会を得る。 初顔合わせは、互いに1時間ほど語り合い、その帰り際に言われた言葉が道を開く。 「明日、時間があれば一本の線を引きに来ませんか?」 そのひと声に、「先生は何かを伝えようとしている」と感じ得る。 それが何なのか受け入れるべく、森友は再度書家の元へと足を運ばせた。 翌日、通された書室を見渡すと、壁には一際大きな一枚の 「○(えん)」を綴った書があった。 それを見て、何かを感じた森友は 「線ではなく○(えん)を書いていいですか?」と尋ねてみる。 その言葉を受け、ただ無言に頷く仕草をする書家が、 森友の為に用意したものは、畳四畳半の大きさもある紙であった。 書の知識を持ち得ていない森友に向き合うと、「どうぞ」と一言だけ伝え、 それはとても大きく、とても太い筆を後に続く言葉無しに渡すだけだった。 当然、今まで持った事のない程の大きな筆を手にし、戸惑い、動揺を隠せない 森友が呆然と立ち竦んでいた。 いろいろな思いが交錯する。 ただ、描くだけなのだ。 それなのに時間はどんどんスピードを上げ過ぎ去るような錯覚。 大きな紙と向き合い、やがて何への覚悟が見い出せぬまま、 畳四畳半の紙に大きな大きな「○(えん)」を一生懸命一生懸命書いた。 その時、森友の中で、何かの兆しを感じ取ることが出来た。 === 答えはすべて自分の中にある === その日から森友と「書」の付き合いが始まる。 書きたい文字が浮かぶと「書」を綴る。 そして初めて筆を手にして約十数年。 「キッカケ」は自身をどん底にまで追い込んだ病を克服した。 それは無論、ミュージシャン 森友嵐士をも取り戻せたことも意味する。 復帰後の森友が、一番最初に書いた文字。それは「絆」。 そして森友嵐士の新たな姿には、「森友嵐士の墨象」と言うべき、 自身の魂のカタチを表現する世界を得ることとなる。